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2012年5月の4件の投稿

2012年5月15日 (火)

10000歩の可動域

下の子の4ヶ月健診に行きました。

場所は一駅離れていて、しかも駅前から20分くらい歩かなければいけない。
プラス、自宅から駅まで徒歩20分、7キロ弱の赤ちゃん抱いて、行きましたとも、ええ。
帰宅して歩数計を見たら一万歩軽く超えてました。

さすがにグッタリしながら夜中に考えたのは、

一人目、二人目のときもこんな大変だったっけ?

そこでようやく思い出したんですけど、前回、前々回は義母に車を出してもらったんでした。

で、今回。
以前と比べて義母との関係が悪くなってたのかというと、まったくそんなことはなく。

ただ単純に、今回はそもそも、ひとの手を借りる必要があるとは思わなかった、んですねえ。

実際、そりゃまあへとへとになりはしたものの、
「あー! 今日はよく歩いたー!」
と爽快感もあったくらいなもんで。

一人目、二人目のときは会場の遠さに、
「ムリムリムリムリ! 赤ちゃん抱いてこんな遠出はひとりじゃムリ! 車出してもらわないと絶対行けない!」
と大騒ぎしたんだった。

あれからむしろ気力体力は5年分衰えているはずなのに。
なぜか、
「あ、電車にちょっと乗って、あと30分も歩かないのかあ。なら行けるな」
と、自力で行けると最初から判断してた。

なんですかね、子ども3人になって、

ムリとか言ってらんね。

な状況をよろよろ踏み越えてくるうちに、できることが広がってるのかもしれません。
余裕なんてなかった一人目のときと比べて、体力とかはどうあれ、気持ちはずっと余裕ができてるのかもしれません。

前より年は取ったのに、できることが増えてたなんて、
ちょっとお得じゃないか、
なんぞと思った、しかしまあ疲れはした一日でした。
むふん。

2012年5月10日 (木)

主婦の手帳術@悩みちう。今回は付箋紙のこと。

毎度うだうだの吐き出しで恐縮ですが。

連休中、多少夜更かししても平気だからと、手帳術の本を続けて4冊読みました。
読んだといっても、うち1冊は途中で既読と気が付いて止め、1冊は主婦的に得るものが少ないというかそれすでにほかの本でも読んだしね、なのでやはり途中で読むのを止めたんですけども。

残り2冊は、読み返しまでしました。

『あな吉さんの 人生が輝く! 主婦のための手帳術』 (浅倉ユキ)
『自分を予約する手帳術』 (佐々木かをり)

いやあ。
うがあ、とうめいてしまいました。

前者は付箋紙を使ってtodoリストをうまいこと消化していく方法なんですけども。
後者はtodoリストをやめてしまうことを提案してらっさる。

どちらも読めば「なるほど! これならうまくいきそう!」
と、

すいません、わたしは、あのう、
「なるほど! 理論はわかった!」

………

しかし実践できる気がしねえ。

orz

とりあえず今回は、
『あな吉さんの 人生が輝く! 主婦のための手帳術』
について。
自分に課した原則として、出来ない理由を数え上げない、てのがあるんですけど、いやだってもうこれだめムリだってだって……
となってしまって。

や、この手帳術そのものはとても素晴らしいんです。
だから実践できたらいいなと思うのに、心の節々がもしょもしょ痛痒くなってくるといいますか。
で、その、なんでなのかってのを並べたら、逆にじゃあどうしたら実践できるかが見えてくるかもというわけで。

さて。

まずわたし、付箋紙でのtodoリスト管理は昔、挫折してまして。

A4見開きだったかなあ。厚紙に縦軸横軸を引き、重要度と緊急度のマトリックスにして、付箋紙に書き出したtodoを貼っていくんです。
todoボードとかいったかしらん、当時かぶれていた仕事術とかの本で読んだのをやってみたんだと思いますが。

記憶に残っているのは、
1.重要度、緊急度の見極めができず、付箋紙を貼り終えるのに時間がかかった。
2.貼った付箋紙が、次に開いたときぽろぽろ剥がれて、なにがなんだかわからなくなりがちだった。というか、意欲をそがれがちだった。
3.付箋紙が反り返ったりして、ボードを閉じたとき折れ曲がってしまい、書いたことが読めず、それをめくったりしてると、またぽろぽろ剥がれてしまう。

とまあ、書き出してみると、なんでこう、あな吉さんの主婦のための手帳術が良さげなのにぞわぞわして実践できる気がしないのかわかりました。

やりたいこと、やるべきことをとにかくフセンに書き出す、思いついたらすぐ書けて、手帳にペタペタ、移動も簡単!

って、ペタペタしてもぽろぽろ剥がれるからヤなんだよう。

や、マスキングテープで作ったフラップを使えば剥がれにくい!
(実はそのアイデアを雑誌で読んで、それならできるかもと思った)

んでも、糊の側だけカバーするフラップじゃあ反り返った付箋紙が折れ曲がるのは避けられない。
両側をフラップで押さえたらいいんじゃ?とも考えたけど、そんな状態の付箋紙を移動させるのは面倒がりそうだ、わたしの場合。

あと、やることシートに付箋紙を貼るとき「ライフスタイルにあわせてフセンをカテゴリー分けする」というのが泣きそうなほどハードル高く感じた。

うー、だってカテゴリー分けってフォルダー分けと同じでしょう? フォルダー分けじゃあ不便だから「タグ」が便利なんじゃないかよう。
とか涙目でぶつくさ言ってみたりするわけですが。

多分わたしの場合、カテゴリーの設定の仕方が、おかしいんです。
これ書いてるうちに、うっすら気付いてきました。

たとえばわたし、こういうカテゴリー分けをしがちでした。

・パソコンの前でできること。
・スマホでできること。
・10分以内にできること。
・休日じゃないとできないこと。

これだと、パソコンでもスマホでもできることなんかは、どこに分けたらいいんだよ、10分以内にできるけど休日じゃないとできないことはどうしたらいいんだよ、と、フリーズするんです。

ここはひとつ、この本に例示されていたカテゴリー分け、

『赤ちゃんがいる人なら……
・赤ちゃんが起きていてもできること
・赤ちゃんが寝ているときにやること
・夫が休みの日になること』

『ワーキングマザーなら……
・平日の朝にできそうなこと
・平日の夜にできそうなこと
・通勤中・会社の休み時間にもできること
・休日にやること』

このあたりを活用させてもらったら、案外うまくいくんじゃないかなあ、なんて。

……あるいは別に、付箋紙をカテゴリー分けしなくてもいいかなあ。

あな吉さんのこの手帳術、たしかにとても、主婦にはよさそうなんです。
やってみたいのはやまやまなんです。

小さい子どもがいると、どんなにうまいこと予定をたてても、時間管理とか効率化とか試してみても、

「お子さんが、熱、38度あるんです」

そんな保育園からの電話一本でぜーーーーーーーーんぶ、リセット。

つか、ちょうどリアルタイムで、真ん中の子の溶連菌による発熱で、本日の予定が全部リセットされましたしね。

こういうときに、じゃあ今のこの時間で片づけられる用事はないかなー、とフセンから選びとる、なんて、とっても気分よさそうだよう。

それでもまだ、付箋紙ぽろぽろやフラップの扱いを考えると気が重くて、とりかかれないんです。
どうしたもんか。

この2冊を読んで、脳がめりめり音をたてるような心地がしましたけども。
悪いことじゃあなさそうなんです。
(うがあ、と頭かきむしりそうになったけど。)
いままでのやり方で固まっちゃってた頭を、ごいんごいんもみ押し洗いするような。
正反対の提案をしている本を読んだせいかと思ったけど。

実は先日、アクションプランナー2012を購入しました。
あな吉さんの手帳術も、かなり不完全ながら、ほぼ日手帳の下敷きの裏にフラップ2枚作って貼って、少ないながらも「あれ買っとかなきゃ」とかを付箋紙で、なんてやりはじめてます。

詳しくは、また後日。

2012年5月 9日 (水)

ダブルバインドってやつ。

モラルハラスメントとか、アダルトチルドレンとか、わりといろんなとこで聞いたことがあります、ダブルバインド。育児本でも。

最初に読んだ本では、二重拘束、と説明されてました。
異なる意味のメッセージとメタメッセージを発することだとかなんとか。

例としてあげられていたのは、子どもに愛情をもてない親が、しかし親は子どもを愛さなければならないという世間一般の建前から、

「おまえを愛しているよ」

と子どもに言う。
が、態度はそうではない、というもの。

子どもがその言葉を信じて近付くと、実は愛してないのだから拒絶される。
態度を信じて子どもが近付かないと、「愛してるって言ってるのに可愛げのない子だ」と疎まれる。

翻訳ものでしたから、子どもに「愛しているよ」とか日本人的にはちょっと想像しにくいシチュエーション。
だからなのか、どうも自分がそういうメッセージを発するところが想像できなかった。
育児をするうえで気をつけた方がいいなと思いつつ、いまいち身に引きつけた感じ方ができない。

ほかに読んだ本では、おそらくこれは内田樹氏の本なんですけど、イエスと答えてもノーと答えても叱られるパターン、確かこんな話。
悪いことをした生徒に教師が、

「しちゃいけないことだと知らなかったのか」
と詰問する。

知らなかったと答えれば、ルールを知らなかったことで叱られる。
知ってましたと答えれば、知ったうえでやったのかこのバカヤロウという話になる。

こういうのは、学校ではよくありましたね。
返事に窮することを先生は言うものだと思ってました。

実体験では、こんなこともあった。
夫のモラルハラスメントでウツになったときのこと。
モラハラというのは、そういうダブルバインドな仕打ちで生きる気力を奪っていくもの。
そんな夫のことをカウンセラーに話したところ、そのカウンセラー、ニヤッと笑って、

「でも、そういうひとだと知ってて結婚したんでしょ?」

……当時のわたしは、苦笑して、ええまあ、とモゴモゴ呟き、カウンセリングが終わったあと、ブログに「知らねえよ! 結婚する前からあんな仕打ちされてたらそもそも結婚しねえよ!」とくだ巻いたもんです。

今振り返ると、カウンセラーのセリフ、これまたダブルバインドだったのですね。

いいえ、そんなひとだとは知らずに結婚しました、と答えれば、
よく知りもしない相手と結婚した迂闊さを笑われ、
はい、そんなひとだと知ってて結婚しました、と答えれば、
じゃあ今の苦しみは、自業自得ですよねえと笑われる。
当時のわたしは、迂闊さを笑われるよりは「自業自得だと知ってます」と苦笑することでなけなしのプライドを守ろうとしたんじゃないかな。

さておき。
ダブルバインド、という言葉を知った当初は、そんな複雑なメッセージなんて発信できるほど頭良くねえよー、なんて思ってたんですけども。
だって、イエスでもノーでも悪い結果になる質問なんて。
モラルハラスメントの加害者のように悪魔的な発想がデフォルトになっている人間じゃなくちゃ、咄嗟に出てきやしないでしょ、と。

しかしつらつら考えるに、とても簡単に、しかもむしろ咄嗟に、こういう返答に窮する、どんな返事をしようが叱責は避けられない問いを子どもにぶつけているよなあ、と、ごく最近になって、ようやく気付きました。

まあ例えば、ちゃんとお片づけする、と約束した子どもが、まったく片づけないという場合。

「お片づけするって約束したのに、忘れたの!?」

て、言っちゃうよなあ。

でもって、これが、
うん、忘れた。 → 忘れたことで、怒る。
ううん、忘れてない。 → 忘れてないにもかかわらず、片づけをしていないことで、怒る。
見事に、子どもにとってはどう答えようが怒られてしまうパターン。

そりゃあ、子どもはムッと口をつぐむわけです。

「なにしてるの!」というのも、子どもには返事のしようがない言葉ですよね。
なにをしてるか聞いてるわけじゃないし。
どちらかというと、「おまえは自分がなにをしているのかわかっているのか」という意味合い。

だからなにがどうかっていうと、

ダブルバインドって、実はものすごく身近な、しかも無意識のうちに加害者になっている話だったんだなあって。

自覚していれば、まだ少し、なにかどうにかできるんじゃないか。
子どもを、どう答えたらいいか茫然とさせてしまう質問という形の叱責を、投げつける前に気がつけたりしないかなあ、なんて、希望的に思ったりしているのでした。

うまいことまとまらないまま、どろん。

2012年5月 1日 (火)

ここではないどこかとか唯一の正解とか。

そんなものなどないという、諦めにも似たぐらつく地面に、足踏ん張っていられるのが大人とか、親、とかってもんだろう、多分。

いきなりポエミーで自分で目眩がしていますコンニチハ。
つらつらと、ぐだぐだと思い悩んでいることを。

イライラしたからって、子どもをはたいてしまうのはなんでなのか。
子どもが赤ちゃんを叩いたから、なんだけど。それにしたって、わたしが叩き返すことはないだろう。
これが他人だったら、大人だったら、なんぼなんでも手を上げない。

自分の子どもだから、叩いちゃうのかな?
子どもだから、叩いちゃうのかな?
近しい存在だから、叩いちゃうのかな?
家族、というのが密室だから?

しつけで叩くことを肯定される方々もいらっさるし、それはそう決めてのことなんだから、そのご家庭ではそうしたらいいんじゃないスか?と思いますけど。
自分は、叩くときに、決意して叩いてない。カッとなって叩いてるので、そんな行為は肯定したくない。

今朝の場合、そもそもなんでイラッ、カッ、となったかといえば、多分、しょーもないことに、寝不足のせいでありましょう。
昨日は疲れたうえに、たいがい朝までグッスリ寝てくれる赤ちゃんが、3回起きた。
起きたっていったって、ギャーンと泣いたわけじゃなく、おっぱいほしがってふんふん声をあげた程度なんだけど。
それでいつもの時間に起きられず、起きてもなんだかシャッキリせず。

そういうときは、器が小さくなってる。
ちょっとしたことで、ぶわっとあふれる。

しかしなあ。
相手が夫だったら、そう簡単にあふれまい。て、まあこれは6、7年モラハラを受けてまだビクついてるからでしょうけど。あ、あと、大人なんだから夫の寝坊や不調はわたしのせいじゃないと割り切ってるからだ。

子どもが遅刻すると、親が悪いてことになるもんねえ。
なかなかトイレでうんちしてくれず、オムツにしたのはいいとしてもそれを逃げ回ってオムツ交換させてくれず、結果、保育園に遅れて「すいません」と言うのも、仕事に間に合わず「すいません」と言うのも、わたしだもんねえ。

そりゃまあその、ふざけんなこのやろう、て気分になるわけだ。

しょーがないよねー相手は子どもだもーーーーーーーーーーん。

と自分は割り切れても、その結果についてくるあれこれの相手は、(保育園はともかく)しょーがないよねーでは済まない。
だからまあ、クワッとなっちゃうんだろうけど。

それだからその、そっちのフォローとかさ。
そもそも寝不足にならんよう、できる対策はしておくとかさ。
時間管理とか手帳術とか。

いろいろかぶれて、手帳術はサボりつつ続けてますが。
時間管理は「まず自分がどう時間を使っているか記録する」から一歩も進まない。
そのうち「時間管理を実行するための時間管理」とか探し出しそうな焦げ付き具合。

うすうす分かっているのに、認めたくないのは、
ほれ、ダイエットみたくさ、
「これさえあれば!」
「これだけやれば!」
なにもかもがうまくいく方法を、実は探しちゃってるんじゃないの?
ということ。

ここではわたしは正当な評価を受けていない、ここではないどこかに、もっとわたしがわたしらしくあれる場所があるはずだ、とか。
ああ、ここがロドスだここで跳べ、ですっけか。あんな。
どこかにもっと最適な答えがあるはず、みたいな。みたいな、さあ。
そこに辿り着ければ、なんとかなるんだよう、て。

なんともなんねえよ。
と分かってるつもりなんだが。

子育てはきっと、絶え間ない忍耐だ。
生きていくのもきっと、絶え間ない努力が必要だ。
きっとそうだと思いつつ、気張って生きてくのはしんどいから、なんかもっとラクな方法ないかなあ、とふらふらしてるんだろうなあ。

そうしてきっと、ラクな方法って、努力も忍耐も、お風呂入ったりする程度には当たり前なこと、にすること、なんじゃないかなあ。

お風呂も、子どものときは面倒とか思ってたけど、今でも面倒なときはあるけど、楽しみだったり唯一リラックスできる時間だったり、にできてる。

努力そのものが、忍耐そのものが、楽しくなるように。

だからそれってどうやるんだよ、

と、ぶーたれてしまう、実にしょーもないわたしもいますが、

なんとかなるかなあ、と、可愛くてしょうがない子どもたちの姿を思い浮かべてみるわたしもいます。

最終的には、
わたしはどうありたいのか、
どうであれば気分いいのか、
という問いになるんでしょうけど。

最近読んだのは、「成人した子どもに、どんなママだったと言われたいか」という問いがありました。
それを基準に仕事と育児の配分を、という話だったかと思いますが。
こりゃあ、あれだ、7つの習慣にあった、あなたの葬式の弔辞でなんと言われたいか。
ドラッカーの、なにをもってして覚えられたいか、
と同じです。あ、いや多分。

まとめに入ろうとしたら、
どう思われたい?
と、
どうありたい?
て、同じ問いではないんじゃないか、と思いはじめてしまった。

うーん、まあ、どう思われたい? を通じて、自分がどうありたいのかを発見するってことなんでしょうけど、
一方で、他人がなに考えてるかなんぞ分からないんだから、「どう思われたいか」は「どうありたいか」より重要ではない、とも思い続けてたんで。

あれえ?

ぐるぐるしてきたところで、本日はこのへんで。
がしょん。

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